2005年03月20日

野球部の危機

野球部は、1978年の夏の県予選で負けた時点で3年生は引退。
1・2年生(計21名)で新チームを作る。
ところが、新チームの運営をめぐって内部抗争がおき、暴行事件もあったりして、2年生5名、1年生8名が退部することになってしまった。
残ったのは、2年生の小松 明憲(厚木中)、藤原 豊(海西中)、小野 伸司(東名中)、1年生の徳田、黒島、押坂、加藤、金沢 真(相模台中)の8名。これでは対外試合に出られない。
そこで、野球部の顧問の牧原先生から陸上部顧問の森田先生(僕の担任)に僕の譲受の依頼があった。
僕は、坊主頭にならなくてもいいならという条件で野球部に移籍することにした。
また、中学野球経験者で当初フェンシング部に転向していた宮田続きを読む
posted by スーパーサウスポーあさちゃん。 at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 厚木高校編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月19日

厚木高校入学〜最初は

1978年4月厚木高校に入学。
徳田、黒島、押坂、加藤の4人は迷わず野球部に入部。
僕は、坊主頭というのがどうも生理的に好きになれず、坊主頭しなくていいなら入るつもりが、先輩たちから一蹴され、髪型にはこだわらない陸上部に入った。
というのは、中学で野球大会終わった後、学校対抗の陸上競技で100M走の強化選手に選ばれ、実際に大会出てみたら、11秒1で厚木・愛甲郡地区大会優勝。続く、県大会でも2位となり、陸上も面白いなと感じていたのだった。
さらに、厚高の最初の担任教師が1964年の東京オリンピックで100Mの補欠(代表は当時の日本記録保持者で後にロッテに入団する飯島秀雄)だったというのにもひかれ、体験入部させてもらったら、熱烈に勧誘されたのもある。続きを読む
posted by スーパーサウスポーあさちゃん。 at 23:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 厚木高校編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする