2006年01月17日

あの日がまたやってきた

1995年1月17日、あの日僕は自主トレ中の沖縄にいた。
僕は、米国から帰国し、今は亡き仰木さんのツテでこの年からオリックス・ブルーウエーブに入団。六甲山のふもとに新居を構えていた。

女房の実家が経営している本島内のホテルで、
女房と娘のさゆりもこの日から沖縄に来るはずだった。そうあの大震災で女房と娘は犠牲になったのだった。

あれから11年。

あの年「がんばろう神戸」の合言葉でオリックス・ブルーウェイブはパリーグ優勝。
翌年も連覇し、巨人を破って日本一に。

その後、1997年オフにFA宣言をして、単身横浜に乗り込んだわけだが、翌1998年横浜ベイスターズ日本一に。。。

現役の最後は2001年の近鉄バファローズ。
北川の代打逆転サヨナラホームランで優勝を決めたあの試合。
北川の前に出てヒットでつないだ。それが、日米通算2000本目。
あの時点は、名球会入りの条件を日米通算成績にするかは決まってなかったら、日本シリーズ終わったその試合で、金田さんから名球会のブレザー着せてもらったっけ。

現役引退と同時に元東京キー局アナの遠藤昌子と再婚。
吉本所属の解説者として、サンTVをメインに野球解説とかタレントまがいのことを1年したのち、星野さんに誘われてタイガースの外野守備・走塁コーチとなり、一塁コーチャーズボックスに立つ。
2003年9月15日、そう阪神タイガース18年ぶりの優勝の日に男の子が生まれた。
星野さんが監督を辞めたと同時にまた解説者&タレントに。
2004年の球界再編騒動では、ライブドア・フェニックスの監督候補に。
2005年9月29日甲子園球場:阪神−巨人戦、岡田監督の胴上げの直後、宮内オーナーから電話が入って、オリックス・バファローズの監督に就任要請。
迷った末、受けることに。

そして、仰木さんがなくなり、清原とノリがオリバに入団することになって、バタバタしていた中でこの日を迎えた。

おりえ、さゆり、忘れてるわけじゃないよ。。。


それにしても、ほりえもんしょーがないなあ
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posted by スーパーサウスポーあさちゃん。 at 18:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | オリックス・バファローズ監督 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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