徳田、黒島、押坂、加藤の4人は迷わず野球部に入部。
僕は、坊主頭というのがどうも生理的に好きになれず、坊主頭しなくていいなら入るつもりが、先輩たちから一蹴され、髪型にはこだわらない陸上部に入った。
というのは、中学で野球大会終わった後、学校対抗の陸上競技で100M走の強化選手に選ばれ、実際に大会出てみたら、11秒1で厚木・愛甲郡地区大会優勝。続く、県大会でも2位となり、陸上も面白いなと感じていたのだった。
さらに、厚高の最初の担任教師が1964年の東京オリンピックで100Mの補欠(代表は当時の日本記録保持者で後にロッテに入団する飯島秀雄)だったというのにもひかれ、体験入部させてもらったら、熱烈に勧誘されたのもある。徳田たちは、先輩優先の方針から、来る日も来る日も球拾い。
当時3年生が8名、2年生が8名で、ベンチ入りはこれで定員いっぱい。
新入生は徳田ら13名が入部も、まともな練習もさせてもらえない。
僕の方は、5月のGWの頃の新人戦で新入生のみの100mにエントリーし、優勝。夏休みのインターハイ県予選の代表選手にも選ばれた。
インターハイ県予選では、惜しくも4位に終わり、全国大会への出場はかなわなかったが、次の楽しみができた。
この時点では、高校時代は2年まで陸上競技に力をいれ、3年になったら大学受験に頑張るつもりでいた。