2005年03月22日

1979年新メンバー入部

1979年4月、新入生が10名入部。
その中に、林中の後輩伊藤(捕手)、南毛利中出身の山田(外野手)がいた。
その2人に加え、16人のベンチ入りメンバーには、
山村 仁(左投左打:投手−小鮎中)、松本 昇(投手・捕手以外はどこでも守れる・スイッチヒッターー座間東中)、中村雄二(内野ー大野南中)、東 次郎(捕手ー成瀬中)
が入った。続きを読む
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2005年03月21日

1978年秋びっくりする事件ばかり

陸上部から野球部に移った1978年秋、野球界は驚きの事件ばかり。

クラウン、西武に身売り。九州から野球チームが去る。

江川 卓空白の1日

阪神:球団史上初の最下位、オフには田淵幸一深夜のトレード通告

当時の僕は、タイガースに行かざるを得なかった小林 繁投手頑張れと思いつつ、部活と勉強の両立に頑張っていた。
幸いにして、家から学校まで自転車で10分と近くに住んでいたので、部活終わって、帰ってから食事。宿題とかは済ませてから早めに寝る。そのかわり、朝は5時に起きてDKで勉強。朝練はランニングのみ。という生活が維持できたから、成績も中の上くらいはキープできていた。
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2005年03月20日

野球部の危機

野球部は、1978年の夏の県予選で負けた時点で3年生は引退。
1・2年生(計21名)で新チームを作る。
ところが、新チームの運営をめぐって内部抗争がおき、暴行事件もあったりして、2年生5名、1年生8名が退部することになってしまった。
残ったのは、2年生の小松 明憲(厚木中)、藤原 豊(海西中)、小野 伸司(東名中)、1年生の徳田、黒島、押坂、加藤、金沢 真(相模台中)の8名。これでは対外試合に出られない。
そこで、野球部の顧問の牧原先生から陸上部顧問の森田先生(僕の担任)に僕の譲受の依頼があった。
僕は、坊主頭にならなくてもいいならという条件で野球部に移籍することにした。
また、中学野球経験者で当初フェンシング部に転向していた宮田続きを読む
posted by スーパーサウスポーあさちゃん。 at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 厚木高校編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする